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――お前らそれで0を1にした気でおるんか?「みんなの夢」を叶えたつもりか!? 『ラブライブ!サンシャイン!!』第十三話感想

表記例:『ラブライブ!』二期九話→LL_S2-9、『ラブライブ!サンシャイン!!』一期十二話→LLS_S1-12




◆小ネタ・小言

ヨハネ氏がルビ丸に抱き着いたシーンって、一見すると感動的なものなんだけど、特段この三人の真面目な絡みが描かれていないので「そっかー」感、いわゆるとってつけた感が出てくる。幼馴染、リトルデーモン四号と面白い素材は転がってたハズなのに、ロクに料理されずに終わった
・逆に、あんだけすれ違いと衝突を描いた三年生組が三人で仲良くしんみりしてると、「よかったねぇ」と心底思う。当然、千歌を軸に擦れてた二年生組もまあ納得がいく。つまり、一年生組だけドラマがなかったね
・「私たちも廃校阻止のために何かやりたい」と思い立って言うことが、「一緒に予備予選で歌いたい」だあ? まず、自分たちにできることを懸命にやり切れよ。虎の威を借りようとしている弱者か!? いつだって最後に頼れるのは自分自身の力なんだよ!! ウルトラマンに頼っていいのは、ギリギリまで頑張ってギリギリまで踏ん張ってもピンチのピンチのピンチの連続の時だけだぞ!!!!
くぎゅううううううううううううううううううううううううううううう






◆最終回は何がやりたかったの?

 残念ながら、拙僧もまだよく分からん。考えを言わせてもらえば、ひとえに「みんなで叶える物語」ごっこがやりたかったんじゃあないの。
 LLS_S1-1-12では、「µ's」への憧れを在り様へと昇華し、自分たちだけの輝きを掴もうと決意した「Aqours」のが描かれてきた。(個人的にはそれは六話でやり切れよと思った次第だが……)「じゃあ残り一話なにやるの?」ってなったら、それはもう「Aqours」が頑張る姿であり、十二話で目標として掲げた「0を1にすること=浦女の良さを伝える、学校説明会に来てもらう」に他ならない。千歌の「9人だけじゃない」ってセリフも、「みんなで叶える物語」を内包している言葉だし、生徒たちが「10!」と叫んだのも同じことを意味している。


 そして、敢えて最後に廃校問題を持ってきた理由がある。それは、分かりやすく“みんな”を導入することができるからだ。この“みんな”とは、しごろくトリオを代表とする浦の星女学院の生徒、内浦に住む人々、浦の星女学院に興味を抱くJCたちのことを指す。なんで、“みんな”を導入するかって? それあれよ、上記のカテゴリーに属す人々は一様に我々視聴者と言い換えても遜色ないからだよ。

 つまりな、

・しごろくトリオを代表とする浦の星女学院の生徒、内浦に住む人々→すでに「Aqours」のファンとなった人たち
・浦の星女学院に興味を抱くJCたち→全十三話を通して、新たなに「Aqours」のファンになってくれる人たち

 という図式だ。

 この図式があるので、最後に廃校問題を持っていき、0を1にするという「みんなで叶える物語」をやろうとしたわけよ。千歌が「みんな歌って!」とそれに呼応する生徒と内浦の人(ファン)の描写がやりたかったわけだ。それを描いて、「Aqours」と“みんな”を繋げたかったわけですわ。そして、十二話で描いたことを受けて、「Aqoursの戦いはまだ始まったばかりだ!!!!」エンドに持っていきたかったのかなと。






◆謎寸劇の意味

 俺も分からん(2回目)。
 物語の側面から考えるに、グループ紹介のシーンだったんじゃあないんですかね。本選に繋がる予選大会では、そういう時間が設けられていて、スクールアイドル「Aqours」がどういう経緯で立ち上がったのか、何のために輝こうとしているのかを伝えるシーンだったと思う。
 寸劇を入れた理由は二つほど考えている。一つは、これまでの“追体験”。敢えて十二話までの流れを視聴者にまた見せることで、「うんうん、そうだったよね(泣)」と視聴者の心を揺り動かし、視聴者と「Aqours」の距離感をさらに縮めて“繋げる”ことが、寸劇の目的だ。
 二つ目の理由は、幻想性の演出といったところだろうか。あの寸劇からラストまでの一連の流れは、なんというか時が止まっているように思った。「Aqours」が見せた輝きを、一瞬一瞬丁寧に表現したかったのかなと。そして、あの寸劇が入るもんだから、我々視聴者の代理人と言える浦女生徒たちが千歌の「みんな歌って!」に呼応しても、あまり違和感がないというか、勢いと幻想性で違和感をブッ潰そうとしている(笑)。「ちょ、待てよ」みたいなツッコミを無理矢理叩き潰そうとした感じだな。要は、あの幻想的な演出には、「Aqours」とのリンクをさらに強める役割があったのかなと思っているわけ。「Aqours」と視聴者の距離感をさらに縮めたかったのだろう。

 





 あ、好意的解釈はこれで終わりな。ここからは独断と偏見で叩き切らせてもらうぜ!!

 


◆実際は、違った

 そう。悲しいかな、実際の視聴反応は作り手の想定外だった。感想をチラホラ見れば、「なにあの謎寸劇?」という声は割りと多かったし、あの曖昧なラストのおかげで「ちゃんと終わった感じがしない」といった感想も挙がっている。
 本作は「繋がり」を一つのテーマとして、「Aqours」内外の繋がりを丁寧に描いてきた。振り返れば、様々な「繋がり」を思い浮かぶだろう。作品のテーマのように、最終話では我々視聴者・ファンとも「繋がろう」としたわけなのだが、残念ながらその意図はあまり伝わらなかったし、繋がれなかった人がいた。

 



◆じゃあなんで繋がれなかったのか?

 あの寸劇を持ち込むことで、なんというか“あっちとこっち”というか“箱庭感”というか、純然たる境界線が引かれたように、最初俺は思ったのよ。画面の中から画面の外へと急に追い出されたというかね。(もっと言うと、あの謎寸劇で冷めたということだ……)その上で、あの幻想的なパフォーマンスとラストが来るので、こうした境界の外にいる感覚や虚構感覚がさらに強まる仕組みになっていると思った。つまり、寸劇からの一連の流れによる「ファンとAqoursを繋げる」機能が、完璧には作動していなかったのだ。ていうか、逆に距離を作っちゃったよね。

 最終回に納得がいかない人の理由を整理すると、

・ “みんなで叶える物語”と、ファン(視聴者)とのリンクを上手く使ってきた本シリーズでは珍しく、その繋がりを断ち切るかの表現になってしまったから
・テーマ「繋がり」を描いてきた作品にしては、虚構的描写を用いて“あっちとこっち”を演出してきたから

というところかなと。

 廃校問題を媒介に、「Aqours」と浦女生徒、内浦の人たちが繋がった。でも、唐突に「私たちも何かやりたい」と出てくるもんだから、対応しているはずの視聴者は「?」となっちゃう。
 最後の0が1に変わった描写からして、「Aqours」が浦の星女学院ととまだ見ぬ浦女生徒候補を繋げたのも分かった。しかし、この浦女生徒候補も言い換えれば、画面の向こうの我々なんだ。だから、一部の視聴者からすりゃあ、“あっちとこっち”と明確な境界線を引かれているので、なーんで0が1に変わったのかサッパリだと思うよ。「ホンマに私たちと繋がろうとしているのか?」と感じちゃうんじゃない?




 


◆余談

 で、俺が本作全体の構成において最大のミスだと思うのは、まさに「Aqoursの戦いは始まったばかりだ!!!!」エンドにしたことだ。これに尽きる。過去のシリーズ作品では、現実とのリンクを非常に上手く使ってきたのだが、本作はその運用方法をミスったなと。
 多分、過去作からの続投ファンも本作からの新規ファンもその多くは、<「µ's」の足跡を辿っていき、最後には自分たちの道を探そうとする、「Aqours」の自分探しストーリー>ではなく、<最初から「Aqours」が「Aqours」としてひたむきに頑張るお話>を期待していたんじゃなかろうか。
 自分探しの旅が終ってやることが「みんなと叶える物語」ってのは、なんか順序が飛んでるように感じるよ。もっとやることやってからじゃないのか。十二話もかけて、企画立ち上げからセカンドシングル発売ごろまでの「Aqours」の立ち位置の説明されてもねぇ。アニメ化の話が出た時期には、「Aqours」独自の立ち位置を確保しつつあって、その後のニコ生でも徐々にちゃんとしたファンができてきたわけで。そこを反映してシリーズ構成ができていれば、また違った流れになったのかなと思った。